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■エッセイ(雑感)■

中国国際航空の搭乗券を挟んだパスポートが宙を舞った。
                                2007年1月記


 まさに外国旅行のトラブルは突然やってくる。大連市内にある法律事務所での駐在勤務を終え、中国大連周水子国際飛行場のレントゲン手荷物検査ゲートを通過しようと歩き出したときだ。前進する私の背後から音もなく忍び寄ってきた若い女性出入国管理官によって私の右手からパスポートが「スー」と抜かれた。あまりの素早い手つきに驚いた私が、前を行く彼女の後ろ姿を追いかけながら「何を」と声を出すと、彼女は黙ったままページめくって私のパスポートを確認すると待合室の座席を指さし、「WAIT!」と言って挟んであった成田行きの搭乗券を返して寄こした。

 そのまま何の説明もなく、私のパスポートを手に持って小走りに戻って行く。呆気にとられて一体何が発生したのか全く分からない。彼女から説明は一切ない。しかし、私の承諾を得ることもなく、手際よくパスポートを回収する彼女のあわて振りから、私のパスポートに問題があるのは分かった。

 これから何が起こるか予測できない。直ちに、危機管理モードに切り替えるしかない。モトローラ製の中国携帯電話のスイッチを入れ、見送りに来ていた大連日本法律事務所の駐在日本人スタッフに緊急事態が生じたことを伝えた。彼らは中国旅行社のガイドとともに我々大連経済視察団体ツアー14名の団体客を大型バスで送迎してきた。先に団体メンバーが出国手続を済ませ、長蛇の列の最後にいた私の出国検査が終わるのを階下の窓ガラス越しに確認し、二階から手を振り、無事の帰国を祈って別れたばかりだ。

 「突然パスポートを取り上げられた」「理由は不明」「ツアー客なのに団体ビザでなく、個人ビザが問題なのかもしれない」「とりあえず中国人秘書を通訳として飛行場に戻して欲しい」等、私は携帯電話で手短に指示した。このまま帰国のCA951便に乗れない最悪の事態を予想するしかない。次に、日本からの団体ツアーグループに日本の大学で学ぶ中国人留学生も参加していたので、臨時の中国語通訳をお願いした。一緒に入管窓口の担当係官のところに行き、なぜ私のパスポートを持っていったのか、説明を求めた。

 中国人留学生の聞いた説明によると、出国印の日付を間違ったので、訂正の必要があるとの回答だ。良かった、私の個人ビザやパスポートに欠陥があるのでなく、入管手続きの娘さんが印鑑を押し間違えたのだ。時間がかかるので待合い室で待機して欲しいとの説明に、ちょっと安心した。男性スタッフに「大丈夫だ、たいした問題じゃない、出入国管理官のミスだ、パスポートもそのうち戻る」と大連市内にある法律事務所に戻って待機してもらって結構と、携帯電話で二報を入れた。

 女性の公務員の口から自らのミスに「ドイプチー(中国語で「ごめんなさい」の意味)」の謝罪もなく、日本語の出来る係官を連れてくるわけでもなく、外国人にとって命の次に大切なパスポートを有無も言わせず取り上げるとは、いやはやその鮮やかな手口にあきれ、腹も立たない。だが、リスク管理の水準は、ひとつシフトダウンした。

 すると、日本人ビジネスマンが声を掛けてきた。私も同じくパスポートを取り上げられた、出国の日付を間違った女性係官から中に入って待って良いと言われたが、何時まで待つのでしょうか、との疑問だ。日本人被害者がこれで二人となった。苦笑しながら、被害者あいみたがいで名刺を交換する。異業種交流会の団体ツアーを先導してきた社長で、私と同じく団体ビザでなく個人ビザだったので、出国手続で私と同じ別の列に並んだのだ。

 結果は明らかだが、どうも間違った日付スタンプを押した娘さんは前の担当官が間違ったとミスを認めてないようだ、と言う。約30分ほど経って上司の男性係官がパスポートを持って我々を捜しにきた。中国人留学生に通訳をしてもらいながらパスポートを確認すると「6月6日出国」が黒スタンプで訂正され、隣に朱も鮮やかに「6月3日出国」と新たな日付印が捺印されている。

 過ぎてみれば、帰国のCA951便に予定通り乗れたし、結果よければ全て良しだ。しかし笑い事じゃ済まされない。被害者の2人からすれば腹立たしい限りだ。中国官吏には客に対するサービス精神がないのか。これじゃ人権感覚の欠如と指摘されるのも無理はないと一人うなずいた。

 パスポートが身分証明として利用されるとおり、出入国のスタンプ印は、名義人の出入国記録を明示する公印による重要な証明行為だ。まさに若い女性出入国管理官の単純な法律ミスである。日付の間違いは重大で、海外滞在日数をカウントし課税する根拠が矛盾してしまう。また海外にいたアリバイを主張するときにも役に立たない。下手をすれば訴訟沙汰になるかも知れない。慌て振りからして、彼女の頭にこの重要性はインプットされていたであろう。

 ところで、頭に血が上った状態から冷静になってみると、まず私が感心したのは個々の普通の中国人が当たり前に持つ「法リスク」への回避能力の高さだ。彼女は自分がミスをしたと発見するや否や、機敏な行動と手際の良い処理で断固としてパスポートを回収した。この洗礼を受けて改めてこの判断と実行力に圧倒された。

 中国大陸では1992年トウ小平の南巡講話以来、改革開放の奔流が大きな渦巻となり「親方鉄鍋」の社会主義秩序からいわば「弱肉強食」の資本主義・グローバルスタンダードへと人々の社会意識が大きく変化した。ビジネス社会を見れば、一面「拝金主義」に毒されているように思える。それは国家は助けてくれない頼るものは血縁関係の身内で、最後は自力のみだという現実に触れ、普通の中国人が持つ危機に対する潜在能力が目覚めたという現象だ。

 外国人旅行客の感情や言葉が通じない事態を捨象し、謝罪や「インフォームド・コンセント(説得と同意)」と比し、自分のミスにより違法の文書が他国に流通する結果を回避する行為を優先する。

 これが「法リスクにおける危機管理の基本」だと私の両目を開かされた。
 江戸時代の町火消しが屋根に登り水で消火しつつ、他方火事の延焼をくい止めるため、隣家の木造家屋を壊すように、事実を冷酷に見詰め、最善の手段を探り、何がなんでも被害の拡大を防ぐのだ。

 私は法リスク管理についてスポーツ指導者やスポーツドクターの講習会などで「トラブルに対処する6つの法則」を提言してきたが、まさに第一の基本が「果たすべき事をまず為す」という被害の拡大を防ぎ、救助をなす活動なのだ。
 海外旅行は、いつも「法リスク」の宝庫だ。毎回新鮮な体験をさせてくれる。

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